終戦前後における天皇の存在

 時は昭和天皇の時代(1926~)に移り、第二次世界大戦が勃発する。
敗戦の日を迎えるまで、日本国民の心は「全てを犠牲にしても、お国の為に」という一色で塗り固められていた。
それしかない時代だったのだ。

 また、日本神話が戦争指導者に都合良く解釈された時代でもある。
思想の自由な表現など存在せず、例えば壬申の乱は歴史の教科書から姿を消されてしまっていた。
カリスマとして君臨した天智天皇の後を継いだ第39代天皇は、天智天皇の息子である大友皇子だと認められ、「弘文天皇」という天皇名も与えられていたからだ。
天皇に刃を向けることなど、絶対に許されることではない。
しかし大友皇子に刃を向けたのは、天智天皇の弟、大海人皇子だった。
またの名は第40代天武天皇である。
天皇に刃を向けた「許されざる者」もまた天皇であるならば、壬申の乱を論じる事すらできなかった。
つまり、一種のタブーとされたのだろう。
壬申の乱はなかった事のように扱われ、歴史学者の間で「古代史上の神話」と称されるようになった。

 日本の人々が徐々に思想の自由を取り戻したのは敗戦後である。
「天皇は神ではなく、人である」と誰もが問題なく口に出せるようになった。
しかし実は、昭和天皇自身が自らを「現人神」と主張した事は一度もない。
その昭和天皇が、「天皇は現人神ではなく、国民と同じ人間である」と読み取れるような文書を公開したのは、終戦の翌年、1946年1月1日であった。
当時の日本はアメリカ主導の連合軍の統治下にあり、新聞各紙が一面で報じたこの文書は連合軍の主導で作成されたと言われている。
ただし、既に神として各神社に祀られている歴代の天皇の存在を否定する文章ではなかった。
また日本神話を否定するわけでもない。
日本の神々へ捧げる伝統神事を廃止することもなかった。

 こうした動きから敗戦国である日本に対して、戦勝国は寛容だったと言えるだろう。
神話を理由に日本が他国より優れているという考えが禁止されるのは当然としても、日本神話そのものは否定されなかったのだ。
天皇の存在が否定されることもなく、昭和天皇は終戦後も含めると実に62年という長い在位期間となった。
そして現在、日本国憲法は「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と謳っている。
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2014/6/23