日本神話の代表作「古事記」「日本書紀」の謎を解く鍵の一つは、書物が創られた昔の人々の物語の中にあると言われます。
 序章では、古代史上の神話と言われる「壬申の乱」をお伝えします。
記事は新しい順に並んでいますので、順序を追って初めから物語を読むには、右側「目次」からご覧ください。

伊勢神宮や薬師寺を支えた無名の人々

 1300年以上前、天武天皇が発案した伊勢神宮の遷宮は今もなお20年毎に続けられている。
世界中から訪れる参拝者は、遷宮を支える人々の内の一人に数えられるだろう。

 伊勢神宮を訪れた人々は、自分達よりもはるかに「年長者」である木々に見守られながら、奥へと足をすすめ、神の社の前に立つことができる。
さい銭を投げ入れ、二度お辞儀をし、二度拍手する。
手を合わせ、神に伝わるよう心の中で願いや感謝を唱え、再度お辞儀をする。
今日の伊勢神宮ではありふれた光景だ。
日本が平和であり、自らの意思で自由に伊勢神宮を訪れる人々がいるからこそ見られる光景である。
伊勢神宮は様々な立場の人々の支えを得て、これからも20年置きに遷宮を実施していく。
遷宮を支える人々の物語は続いていくのだ。

 ちなみに神道の世界に名を残した天武天皇であるが、一度は出家した身として仏教も手厚く保護した。
世界遺産に登録されている薬師寺も、元々は天武天皇が妻、鸕野讚良の病気平癒を願って建設を命じた寺だ。
鸕野讚良の体調は回復したが、皮肉にも天武天皇が完成を待たずに他界している。
天武天皇の後を継いだ鸕野讚良は、持統天皇として薬師寺の完成を見届けた。
それでも発願者としての天武天皇の名前は、薬師寺において重要な位置を占めている。
毎年、命日には法要が行われ、現代に生きる薬師寺の僧侶達が1300年以上前に生きた天武天皇を偲ぶのだ。
実は、当時に建てられた場所からは移転している。
過去には竜宮城にも例えられた美しい建物も災害に見舞われ、戦火に見舞われ、灰燼に帰すこともあった。
再建できたのは、時代時代に生きた人々の献身的な努力の賜物と言える。
そして薬師寺は世界遺産として登録されるにふさわしく美しい姿を再び取り戻した。
寺を訪れてみれば、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国等の国々から伝わった見事な文様の他にも、薬師寺再建の記録の一端に触れる事が出来るだろう。

 確かに、伊勢神宮の遷宮や薬師寺を発案したのは天武天皇だった。
しかし、その後も支え続けた無名の人々がいたからこそ、素晴らしい状態に保たれている。
名を残さぬ人々の御蔭で、これら聖地と呼ばれる場所を旅する楽しみがある。
聖地を支えた人々のドラマに想いを馳せる時。
きっと心豊かな旅となるだろう。
この記事のEnglish siteへ

カテゴリー: 伊勢神宮, 日本神話を創った昔の人々の物語 | タグ: | 2014/7/10

人々の支える伊勢神宮の遷宮

 1300年間に渡り、同じモノを以前とそっくり同じようにつくりあげ、20年毎に神々に捧げる。
そのために莫大な資金を何とか集め、何年もかかって準備をする。
それが伊勢神宮の遷宮である。

 なぜ天武天皇は伊勢神宮の遷宮を20年毎と定めたのだろうか。
残念ながらこの理由について記録は残されていない。
文字通り「神のみぞ知る」話だ。
つまり、その理由は想像するしかない。
当然そこには神道という宗教儀式の意義もあったのだろう。
しかし推測される理由の中には、比較的わかりやすいものもある。
例えば、五穀豊穣の感謝祭で供えられる穀物の保存年限が20年という理由である。

 古代では、伊勢神宮は「皇室の氏神を祀る神社」として個人が参拝することは禁じられていた。
庶民が参拝することなど考えられず、さい銭箱すら置いていなかったという。
その伊勢神宮も時代と共に変り、「日本人の総氏神を祀る神社」と認識されるようになる。
また、20年毎の伊勢神宮の遷宮は中断を余儀なくされることもあった。
権力者の保護を受け、その保護を失い、国の保護を受け、その保護を失う。
国土が荒廃する度に、伊勢神宮には大きな危機が訪れた。
しかし今や、伊勢神宮の遷宮を支えるのは日本人ばかりではない。
誰もが自由に伊勢神宮に入ることができるからだ。
ちゃんとさい銭箱も置いてある。

 直近では2013年の遷宮も無事に終え、伊勢神宮を訪れる人々はかなりの数にのぼる。
ただし参拝者でも「熱心な神道信者」だという人は、それほどいないのではないだろうか。
日本に観光にきた外国人の方々もいる。
さい銭箱に投げ入れられる小銭にしたって、1円や5円というわずかな金額も多いだろう。
毎年のように多額の寄付をする人々もいることを考えると微々たる力かもしれない。
しかし参拝者は皆、伊勢神宮の遷宮の支えとなる原動力になっている。
遷宮は多くの人々に支えられているのだ。
この記事のEnglish siteへ

カテゴリー: 伊勢神宮, 日本神話を創った昔の人々の物語 | タグ: | 2014/7/7

伊勢神宮の遷宮費用

 日本の戦後復興期の最中となる1953年10月、伊勢神宮は第59回遷宮を実施した。
この遷宮費用には戦前に支給された国費と民間から集まった寄付の両方が使われている。
つまり伊勢神宮は宗教法人として新しい道を歩み出していたものの、国に助けられた部分があった。
しかし、これ以降は1円たりとも国に頼る事は出来ない。
遷宮資金の確保は全て伊勢神宮でなんとかしなければならないのだ。
ひょっとすると第60回目の遷宮こそが、伊勢神宮では正念場となっていたのだろうか。

 第59回遷宮の資金確保の為、戦後に設立された民間団体は、見事にその役目を成し遂げた。
その後も財団法人として活動が今日まで引き継がれている。
こうした伊勢神宮を支える人々の活躍により、第60回以降も20年毎に遷宮が実施された。
第60回は1973年、第61回は1993年。
内宮が10月2日、下宮が10月5日。

 そして2013年、第62回遷宮が行われたばかりである。
伊勢神宮によると、第62回の費用は約550億円。
参考までではあるが、大阪にある世界的なテーマパークの新施設建設費は450億円。
2014年夏公開の新施設は、同社史上最大の投資であると注目を集めている。
比較すると、如何に伊勢神宮の遷宮にはお金がかかるかと、改めて実感できるかもしれない。

天武天皇が伊勢神宮の遷宮を発案したのは685年。
その妻である持統天皇が遷宮を実施したのは内宮が690年、外宮が692年。
一時中断こそあったものの、これだけお金がかかる神事が実に1300年もの間、続けられているのだ。
この記事のEnglish siteへ

カテゴリー: 伊勢神宮, 日本神話を創った昔の人々の物語 | タグ: | 2014/7/3

戦後復興期における伊勢神宮の第59回遷宮

 終戦した1945年、アメリカ主体の連合軍が政策決定の主導権を握る中、国家の手厚い保護を受けていた全ての宗教団体には自立が求められた。
これ以降、神社仏閣は「宗教法人」として企業のような独立採算制の下、存在していくことになる。同年、伊勢神宮は4年後に予定されていた第59回遷宮の中止を告知した。
実は伊勢神宮への国費投入は正式に打ちきられたが、過去に支給された分は遷宮資金として活用される予定であった。
それでも全く足りなかったという。
戦時中には国費は満足に支給されず、滞っていたのがその理由だった。

 「果たして、国が支援しない伊勢神宮を人々はどう思うのだろうか。
食うに困る日本の世の中で、遷宮資金は集められるのだろうか。
59回目の遷宮は実現できるのか。
・・・・伊勢神宮は『日本国民の総氏神を祀る神社』であり続けられるのか。」

 ひょっとしたらこんな事を自問自答する人もいたのかもしれない。
伊勢神宮が戦国時代以来の危機に陥っていたことは想像に難くなかった。

 幸いにも、日本は目覚ましい戦後復興期を迎えた。
そして伊勢神宮は遷宮に対する寄付を何とか集めていく。
終戦前までに支給された国費と一般の人々からの寄付により、莫大な遷宮資金が確保できたのだ。
そしてとうとう1953年、伊勢神宮の第59回遷宮が行われる。
内宮が10月2日、外宮が10月5日。
第58回遷宮から24年後のことだった。

 ちなみに日本の本格的な戦後復興期は、一般的に1950~1954年と言われている。
第59回の遷宮はちょうどその最中に行われたのだ。
人々は伊勢神宮の遷宮再開に何を思ったのだろうか。
白黒テレビすら普及していない時代、日本の人々の情報源はラジオや世間話だった。
当然目で見る事はできなかったはずだ。
それでも「日本国民の総氏神を祀る神社」の明るいニュースに励まされた人々は多かったのかもしれない。
この記事のEnglish siteへ

カテゴリー: 伊勢神宮, 日本神話を創った昔の人々の物語 | タグ: | 2014/6/30

終戦後の宗教政策

 1945年、第二次世界大戦が終わり、アメリカ主導の連合軍が日本の政策決定を主導、日本は復興しようとしていた。
二度と戦争しないよう、日本国民を戦争に駆り立てた政策は一掃される。
そして明治以降の偏った宗教政策もその政策の中に含まれていた。

 昭和天皇自身は自らを神と主張したことは一度もなかったが、終戦の翌年に「天皇は現人神」という概念を否定できるような発表を行う。
日本神話を都合良く解釈し、「日本は他国より優れている」というような選民意識を植え付ける行為は禁止された。
「国家神道」という考え方も禁止。
伊勢神宮を頂点としていた神社の格付けも廃止される。
そして当然、特定の宗教に対する国家の手厚い保護も廃止されるのだった。

 しかし、既に神々として祀られている歴代の天皇達の存在が否定されることもなく、神社の神々に捧げる伝統的な神事を行うことも許されていた。
神道の存在自体を否定されることはなく、日本神話も失われることはなかったのだ。
つまり、保護はしない、かといって潰しもしない。
例えて言うならば、神社仏閣が企業のような「独立採算制」を求められたのである。
「生き残りたいなら、自分達で何とかしなさい。」
こういった状況だったのだろうか。

 宗教政策の変化に伴い、「皇室の氏神を祀る神社」として手厚い保護を受けていた伊勢神宮は、またもや遷宮中断の危機を迎えた。
遷宮の為の国費投入が打ち切られたからである。
資金難に苦しんだ戦国時代には織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの支援を受けて危機を乗り越えたが、もう権力者には頼れない。
一寸先は闇だった。
終戦した1945年、伊勢神宮は第59回遷宮の中止を告知する。
実は第59回遷宮は1949年の予定であり、まだ4年も先の事であった。
それでも当時、先の見通しが立たなかったのは明らかだ。
1609年からずっと、20年毎に必ず実施され続けてきた伊勢神宮の遷宮が中止されたのだ。
これ以降、伊勢神宮の「独立採算制」が試されることになる。
遷宮には多くの人々の支援が必要であった。
この記事のEnglish siteへ

カテゴリー: 伊勢神宮, 日本神話を創った昔の人々の物語 | タグ: | 2014/6/26

終戦前後における天皇の存在

 時は昭和天皇の時代(1926~)に移り、第二次世界大戦が勃発する。
敗戦の日を迎えるまで、日本国民の心は「全てを犠牲にしても、お国の為に」という一色で塗り固められていた。
それしかない時代だったのだ。

 また、日本神話が戦争指導者に都合良く解釈された時代でもある。
思想の自由な表現など存在せず、例えば壬申の乱は歴史の教科書から姿を消されてしまっていた。
カリスマとして君臨した天智天皇の後を継いだ第39代天皇は、天智天皇の息子である大友皇子だと認められ、「弘文天皇」という天皇名も与えられていたからだ。
天皇に刃を向けることなど、絶対に許されることではない。
しかし大友皇子に刃を向けたのは、天智天皇の弟、大海人皇子だった。
またの名は第40代天武天皇である。
天皇に刃を向けた「許されざる者」もまた天皇であるならば、壬申の乱を論じる事すらできなかった。
つまり、一種のタブーとされたのだろう。
壬申の乱はなかった事のように扱われ、歴史学者の間で「古代史上の神話」と称されるようになった。

 日本の人々が徐々に思想の自由を取り戻したのは敗戦後である。
「天皇は神ではなく、人である」と誰もが問題なく口に出せるようになった。
しかし実は、昭和天皇自身が自らを「現人神」と主張した事は一度もない。
その昭和天皇が、「天皇は現人神ではなく、国民と同じ人間である」と読み取れるような文書を公開したのは、終戦の翌年、1946年1月1日であった。
当時の日本はアメリカ主導の連合軍の統治下にあり、新聞各紙が一面で報じたこの文書は連合軍の主導で作成されたと言われている。
ただし、既に神として各神社に祀られている歴代の天皇の存在を否定する文章ではなかった。
また日本神話を否定するわけでもない。
日本の神々へ捧げる伝統神事を廃止することもなかった。

 こうした動きから敗戦国である日本に対して、戦勝国は寛容だったと言えるだろう。
神話を理由に日本が他国より優れているという考えが禁止されるのは当然としても、日本神話そのものは否定されなかったのだ。
天皇の存在が否定されることもなく、昭和天皇は終戦後も含めると実に62年という長い在位期間となった。
そして現在、日本国憲法は「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と謳っている。
この記事のEnglish siteへ

カテゴリー: 壬申の乱, 日本神話を創った昔の人々の物語 | タグ: | 2014/6/23

明治時代の宗教政策

 明治時代(1868~)とは、天皇の名の下に様々な権力が行使され、世の中の仕組みが急激に変っていった時代である。
当初、明治政府は神道の国教化の方針を固め、宗教界にも序列を与えようとした。
伊勢神宮はもちろん神道に属する宗教であるが、「皇族の氏神を祀る神社」として日本全ての神社の頂点に位置づけられることになる。

 ちなみに、日本古来の考え方であった神仏習合の考え方を否定し、神と仏、つまり神社と寺院をはっきりと区別させるようにしたのもこの頃であった。
「神仏分離令」が打ち出されたのは1868年。
神道による国民教育を目指しており、仏教の排除を意図したわけではなかった。
それでも神仏分離令をきっかけに寺院や仏具に対する破壊行動が全国的に起こってしまう。

 そして間もなく、キリスト教や仏教を含め、あらゆる宗教を統制下に置こうとした政府の宗教政策はとん挫する。
欧米と肩を並べる「日本国家」をアピールするには、「政教分離」や「信教の自由」を無視することはできなかったことも理由の一つとなった。
政策には矛盾が生じ、人々の心もついてくるはずもない。
明治政府の宗教政策は迷走していたと言えるだろう。

 ただし伊勢神宮においては資金難に陥ることもなく、遷宮は順調に行われた。
そして時代は明治(1868~)、大正(1912~)、昭和(1926~)へと移り、日本は第二次世界大戦に突入していくのだった。
この記事のEnglish siteへ

カテゴリー: 伊勢神宮, 日本神話を創った昔の人々の物語 | タグ: | 2014/6/19